2013年5月にはまちかどコンサートが開かれたそうです。「歴史を感じる会場」とはまさしく言い得て妙ですね。「明治15年築の洋館建の校舎、3回の移築を乗り越えて、蔵風の新校舎と共に」
西宮市立今津小学校

教育熱心な今津
宝暦5年(1755)、海岸近くに大観楼という学問所が建ち、京都から著名な学者を招くなどして学問に励み、今津は古くから教育熱心な土地柄といわれています。
明治5年日本にて最初に学校制度を定めた教育法令である学制が公布され、全国に小学校が開設されていく時代、今津小学校の設立は明治6年、今津村と津門村が連合し、今津村常源寺(現今津水波町)を仮校舎としたことが始まりだそうです。とても小規模な建物ですので、この他に講堂などの付属施設がほかにもあったのかもしれません。要調査。
同時代、一足早く明治7年、西宮小学校(今の浜脇小学校)の新校舎(東町3丁目)が作られました。「西洋作りの浜の学校」と言われたモダンな小学校だったそうで、今津の人々の新校舎をという思いを実らせ、明治15年1882出在家に洋風校舎(現在の六角堂)を新設しました。(※注意:旧西宮小学校については文献調査中)
この校舎の建築費は8,000円、そのうち5,200円は両村民有志による寄付だったそうです。学問にかける意欲の強さはこの地域の伝統でしたが、当時、米一石が8~9円の時代、しかも、地域産業の酒造業不振の折だったそうです。

正面玄関上の八角形の塔屋
第2次世界大戦中の昭和20年8月5日の夜、今津地域だけで約300人の死者を出した大規模な空襲がありましたが、今津小学校と六角堂は焼けずに残りました。(当時は六角堂とは呼んでいなかったと思われる。)そして、昭和20年8月16日に終戦を迎えました。
昭和25年に校内西南の隅へ、六角堂初めての引っ越しがあり、老朽化した六角堂の改築工事が終わった昭和30年12月27日に今津公民館として開館しました。当時市内で2番目にできた公民館でした。
昭和39年(1964)、名神高速道路インターチェンジの開発が始まりました。これに伴い、講堂用地確保のため、第二阪神国道(現在の国道43号線)の北側に新たに公民館の設置が決まりました。これにより、役目を終えた六角堂の取り壊しが検討され、昭和39年に、六角堂が取り壊されることがほぼ決定しました。

小学校北側から学校越しに見える大関の看板
六角堂保存運動
しかし、地域住民の強い要望が市議会を動かし、六角堂取り壊し案は取り下げられました。六角堂は小学校の北門西側に移築して、今度はインターチェンジを背に、昭和40年「今津幼稚園の園舎」として大改装(建物ごと曳き家したのででなく解体し、1階の柱をとる、階段の計上を変えるなど幼稚園の用途に合うよう改変、ただ石、柱などの古材は流用された模様)し使われることになりました。この年に当時の県知事が正式に「六角堂」と命名したそうです。(昭和40年2月六角堂復元移築完了)
阪神大震災と新校舎
平成7年阪神大震災で、瓦が落ち、窓ガラスが割れたそうですが倒壊は免れました。震災後、校舎の改築・増築に伴って、南側の最初に建てられた場所に近い酒蔵通り沿いに移築されました。
平成9年 4月 六角堂及び西校舎解体工事開始、平成10年 10月竣工するとともに、六角堂は「第7回・兵庫県さわやか街づくり賞(建築物部門)」を受賞。
結果的に、太平洋戦争の戦禍や震災の被害を免れ、その間小学校の敷地内で二度移転された後、三度目、現在の「酒蔵通り」に面した位置に移設(解体、内装・間取り・階段を新たに再建、移設前の材料はできるだけ使用)され、現在の姿になりました。小学校校舎、今津公民館、今津幼稚園と用途を変えながら、現在は今津小学校の学舎の一分に戻り、1階は六角堂の歴史資料の展示コーナーと地域の人々へ開放した集会室(会議室)、2階は視聴覚室(大きな洋室と八角形の出っ張ったサンルーム)として使用されています。
文化財になれない無冠の六角堂
現在の六角堂が文化財指定されない理由は、当初建築材料の残存率が低く文化財としては改造が多く、いわばレプリカ=「外観復原建物」との認識が文化財関係者にあるからだそうです。しかし、部材は入れ替りつつ、老朽化や移築、用途の変更にめげず現在その姿をとどめていることには大きな賞賛があっていいものと思われます。
・・・公民館当時の写真を見ると、窓の桟の割り付けが違っていますが、元はどうったのでしょう。また鎧戸のついた絵図も残っているようで、再調査の意義が大いにあるようです。どうか、ご存知の方からの情報いただけるとありがたいです。
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下見板張りの洋館の例:旧辻川郵便局

(兵庫県神崎郡福崎町西田原字道北1107-1) 2008年登録文化財
参考文献:明治時代の絵図武庫群役所とともに、鎧戸つきの外観図、古い平面図(今津六角堂所蔵)、『西宮あれこれ』↓に写真(窓の桟割が細かい)

生駒宝山寺は擬洋風建築 M15築
メモ:明治15年にはお雇い建築家コンドルが東京帝室博物館(旧本館)を設計、開館し、翌16年には同設計の鹿鳴館が竣工している。お隣神戸の旧居留地十五番館(重文)も同時期(明治14頃)に建てられた西洋館で木骨煉瓦造で、南面両端にペジメントをつけ、二階の開放的なヴェランダは、のちに室内に取り込んでいる。また外壁は板張りで、ペンキ仕上げ、窓の鎧戸も六角堂の古絵図と類似点がある。


近代神戸の小学校建築史– 2019/3/20
川島 智生 (著)
序章 神戸の小学校が歩んだ近代
第一章 明治・大正前期の小学校建築
第一節 明治前期の小学校校舎の成立と建築特徴
第二章 大正・昭和戦前期の神戸市における小学校建築の成立と特徴
第一節 神戸市における鉄筋コンクリート造校舎の成立と特徴
第二節 代表的事例
第三節 実現された鉄筋コンクリート造校舎の一覧と評価
第三章 大都市近郊町村における小学校建築の成立 ─兵庫県旧武庫郡町村
第一節 大都市近郊町村における小学校建築の成立と民間建築家との関連 ─兵庫県旧武庫郡の町村を事例に
第二節 代表的事例
第四章 小学校をつくった建築技術者
第一節 神戸市営繕課の組織と活動
第二節 日本トラスコン社の活動
第三節 神戸を代表する建設業者
第五章 小学校をつくったフリー・アーキテクト像
第一節 建築家 清水栄二の経歴と建築活動について
第二節 建築家 古塚正治の経歴と建築活動についての研究
第六章 戦災・震災と小学校校舎


お雇い外国人――明治日本の脇役たち (講談社学術文庫)
梅渓 昇
明治時代、日本の招きにより、近代化の指導者として大勢の欧米人が渡来した。その国籍は英、米、独、仏等にわたり、活躍の場も政治、法制、軍事、外交、経済、産業、教育、学術と多岐にわたった。日本での呼称そのままに、自らをYATOIと称する彼らが果たした役割はいかなるものであったか。日本繁栄の礎を築いた「お雇い外国人」の功績をさぐる。