

左:中央に畝傍高校南東背後は香具山と深く広がる吉野山地
すっかり住宅や中高層のマンションが並び立つ
右:「帝冠様式?」の畝傍高校(昭和8年築、岩崎平太郎設計)
すっかり住宅や中高層のマンションが並び立つ
右:「帝冠様式?」の畝傍高校(昭和8年築、岩崎平太郎設計)
畝傍駅から井戸の辻、八木の町に入って下ッ道を下る。途中古い長屋を見ながら、旧高級借家群を通り突き当たりの畝傍高校へ。設計者は下市町出身の「岩崎平太郎」(M26/1893~S59/1984)、近代建築で有名な武田五一(1872〜1938)の弟子ともいわれ地元奈良に非常に貢献した建築家である。
岩崎さんのその他の設計例:上市の吉野鉄道社長阪本家別荘「白雲荘」*、旧吉野鉄道旧久米寺駅-葛駅舎、大和上市駅、吉野神宮駅*、吉野駅舎*、上市北村林業事務所*、天理大学外国語学部校舎*、奈良女子大学佐保会館など多数(*は現存)。地味だけど地元に貢献した建築家、身近な建物が多いので是非見てきてくださいね。畝傍高校校舎の建築レベルはかなり高い・・・、ことがわかります。


畝傍高校背面(南側)ちょっとそっけない・・・。
洋風の胴体に本瓦葺きのパラペット屋根や塔を模した相輪付きの宝形屋根が載る。左右対称でまさしく「帝冠様式」の様相である(これは帝冠様式ではなく、1923年(大正12年)の関東大震災を受け、耐震耐火のRCによる和様(和風コンクリート造・日本趣味建築)との見解あり、旧JR奈良駅舎と共通項あり注意)。 華美でなく、象徴性の強い建物である。


旧JR奈良駅と水煙・相輪(090918)
大阪鉄道管理局工務課設計、1908年(明治41年)築、RC造2階建
保存運動を経て曳き家保存され、現在は奈良市総合観光案内所
大阪鉄道管理局工務課設計、1908年(明治41年)築、RC造2階建
保存運動を経て曳き家保存され、現在は奈良市総合観光案内所
現在、この貴重な姿をとどめる方法に議論が寄せられている。築75年、登録有形文化財への登録が十分可能な、歴史と建築文化的価値を持った建物。
東京のモダニズム建築 第3巻-学校篇- [DVD]
徳弘夏生

建物概要
鉄筋コンクリート造3階建。
中央に寺院風塔屋(本瓦葺、宝形造、相輪)と陸屋根の車寄せを持つ。
塔屋両翼棟は縦長の窓を持ち、壁面は下から基壇、中段、上層部と三段の欧風建造物の組み立てを持つ。
陸屋根だが、上部パラペット見附部分は本瓦葺の付け庇となっている。
これらの様式を、昭和8年の竣工式のパンフレットには「東洋趣味ヲ加味セル近代式」と記している。
帝冠様式とは
洋風ビルの上に、日本国を象徴するかのように日本屋根を冠したデザイン様式のこと。『世界最古の古典式を採用し、其の屋蓋は我が国特有の崇高荘厳なる様式として世界の讃賞しつつある宮殿様式を用い、彼我の長所を併合融和』(下田菊太郎曰く)したものとも、「帝冠併合式」とも、「木に竹をついだ様式」、「ファシズム建築」・・・ともいわれている。本件は塔を冠しているが帝冠様式と呼ぶかは???。
(あかい奈良’03冬、’04奈良まちづくりセンター「大和の建築家・岩崎平太郎とその時代展」資料参考)


帝冠建築の例:愛知県庁舎(西村好時・渡辺仁、1938)、名古屋市役所庁舎(平林金吾、1933)
畝傍高校校舎の歴史:昭和8年(1934年)、奈良県立「畝傍中学校」として竣工。戦中下、「海軍経理学校」として使われ、戦後、畝傍高等学校となる。
昭和26年11月に人間天皇となった昭和天皇がこの校舎正面に立ち、耳成山を背に立つ校庭にあふれるほどの人々に手を振った光景が写真で残っている。畝傍高校が「高市郡奉迎場」となったエピソードである。(「目で見る橿原・高市の100年」より)
戦後まもなくは、この塔正面の壁面に弾痕が残りその爆撃の激しさを物語っていたという「戦争の生き証人」でもある学舎である。
小中高校の統廃合問題は他人事ではないらしく、2004年奈良県立耳成高等学校('83開校)と統合し、新・奈良県立畝傍高等学校となり、制服も変った。さて今後この高校はどうやって時代を下っていくのであろうか。子供の頃からここは遊び場で、高校のお兄さんお姉さん方にもかわいがってもらい、思い出一杯のこの校舎には愛着も深い。難しいことをいわぬとも、お願い、これはそっとここにおいといて。

左:玄関車寄せの短い親柱の半球。姿よく好ましい形
右:正面玄関の入り口周りのディテール「和」か「洋」か?
右:正面玄関の入り口周りのディテール「和」か「洋」か?
-------------'05.07.28追記:奈良県立高校再編「8校を4校に」-------------
平成15年12月に奈良県議会で「奈良県立高等学校等設置条例の一部を改正する条例」案が可決され、「城内高等学校と郡山高等学校」、「信貴ヶ丘高等学校と上牧高等学校」、「畝傍高等学校と耳成高等学校」、「榛原高等学校と室生高等学校」をそれぞれ統合し、「郡山高等学校」「西和清陵高等学校」「畝傍高等学校」「榛生昇陽高等学校」を設置することに。(平成16年4月1日から施行)
無事、畝傍高校という校名は残ったが、かたや校名を亡くした高校を思うと複雑な思いが残る。

1962年ごろの畝高の門あたり 守衛室や門前の木造家屋(確か本屋さん?)がわかる
さて、上写真に垣間見える畝高の門脇の守衛室と門前の「勝川書店」について、下記、非常に興味深い情報をいただきました。
−−−−−
畝傍高校の写真(上の白黒写真)ですが、おっしゃるとおり、門前の木造家屋は書店です。「勝川書店」といって、年度初めには教科書をそこで買いました。本を買うとかけてくれるカバーは、全国の大学の校章をちりばめたものでした。この書店もいまは店じまいして、ふつうの民家となっているはずです。

2009年の様子(畝傍高校校門と盛り上がる生徒達)
また守衛室は、屋根のうえに小さな五輪あしらったものらしき装飾(5つ輪があったかどうかは記憶になし、、、いや、もっとシンプルな突起状の装飾だけだったか。。。)がついた「ミニ帝冠様式」でした。当時すでに守衛詰め所の役割を終えており、体育用具置き場になっていました。その守衛室もすでに取り壊され、いまでは無粋なプレハブ小屋がぽつんと置かれたように記憶しています。(畝傍高校も本館と体育館以外はすかっり様変わりしました。思い出も多いです。せめて本館だけでも保存かつ使用していってほしいものです。)
'051012、U.S.A.T氏より投稿いただきました。ありがとうございました。
皆様からの思い出もお待ちします。
確かに、この守衛室は校舎(や講堂)と同じ設計者であったろうと推察でき、
「ミニ相輪」が載っていた可能性も大。改めて資料を探してみる事に。
ちょっとお時間いただきます。
後日談1
:畝傍高校の先輩によると、
畝傍高校は戦時下、【正】海軍経理学校(誤り:海軍兵学校)が使用していたそうで、校門や守衛室など、警備施設はその当時のものではとのご意見いただきました。詳細は不明ながら、改めて波乱の歴史をつぶさに感じるお話でした。機会あったら、畝傍高校の歴史をチェックいたします!
後日談2
:畝傍高校の在校生によると、
勝川書店営業中です!とのことです。
木造校舎の思い出 近畿・中国編―芦沢明子写真集

やまと まつり旅―奈良の民俗と芸能
宮本常一 [ちくま日本文学022] (ちくま日本文学 (022))
コミュニティ・レストラン
京都愛宕山と火伏せの祈り
絵図に見る伊勢参り
日本伝統の町―重要伝統的建造物群保存地区62
総覧 登録有形文化財建造物5000
Comments
1回書き込み?何度かサイトクラッシュがあったので、失礼したかもしれません。すみません。
さて畝傍高校の写真提供ということ、うれしいコメント、ありがとうございます。写真部?
右肩の「リンク」から「問い合わせフォーム」に入って今一度コンタクトいただくか、650枚もあるのならブログなど別サイトを組んでいただき、リンクさせていただくのもいいかもしれませんね。(ただし、教育機関ですので当然配慮いりますが・・・。)
どんなふうに紹介できるか楽しみです。
う~ん一回書き込んだような書き込んでないような気がしますが・・・
部活に入っている時にいろいろと校舎の写真を撮ったのがあるんですが。さっき数えてみたら650枚ほど
なにかほしいものがあれば、そういう写真があれば提供させてほしいです。
よろしくお願いします。