

左:中央に畝傍高校南東背後は香具山と深く広がる吉野山地
すっかり住宅や中高層のマンションが並び立つ
右:「帝冠様式?」の畝傍高校(昭和8年岩崎平太郎設計)
すっかり住宅や中高層のマンションが並び立つ
右:「帝冠様式?」の畝傍高校(昭和8年岩崎平太郎設計)
*帝冠様式とは洋風のビルの上に,日本国を象徴するかのように日本屋根を冠したデザイン様式のこと。本件は塔を冠しているが帝冠様式と呼ぶかは???。
現在、この貴重な姿をとどめる方法に議論が寄せられている。築75年、登録有形文化財への登録が十分可能な、歴史と建築文化的価値を持った建物。
畝傍駅から井戸の辻、八木の町に入って下ッ道を下る。途中古い長屋を見ながら、旧高級借家群を通り突き当たりの畝傍高校へ。設計者は「岩崎平太郎」、近代建築で有名な武田五一の弟子ともいわれ地元奈良に非常に貢献した建築家である。
洋風の胴体に本瓦葺きのパラペット屋根や塔を模した相輪付きの宝形屋根が載る。左右対称でまさしく「帝冠様式」の様相である(これは帝冠様式ではなく、耐震RC設計による和様との見解あり、旧JR奈良駅舎と共通項あり注意)。 華美でなく、象徴性の強い建物である。
畝傍高校校舎の歴史:昭和8年(1934年)、奈良県立「畝傍中学校」として竣工。戦中下、「海軍経理学校」として使われ、戦後、畝傍高等学校となる。吉野出身の岩崎平太郎の設計。
昭和26年11月に人間天皇となった昭和天皇がこの校舎正面に立ち、校庭にあふれるほどの人々に手を振った光景が写真で残っている。畝傍高校が「高市郡奉迎場」となったエピソードである。(「目で見る橿原・高市の100年」より)
戦後まもなくは、この塔正面の壁面に弾痕が残りその爆撃の激しさを物語っていた戦争の生き証人でもある学舎である
小中高校の統廃合問題は他人事ではないらしく、さてこの高校はどうやって時代を下っていくのであろうか。子供の頃からここは遊び場で、高校のお兄さんお姉さん方にもかわいがってもらい、思い出一杯のこの校舎には愛着も深い。難しいことをいわぬとも、お願い、これはそっとここにおいといて。

-------------'05.07.28追記:奈良県立高校再編「8校を4校に」-------------
平成15年12月に奈良県議会で「奈良県立高等学校等設置条例の一部を改正する条例」案が可決され、「城内高等学校と郡山高等学校」、「信貴ヶ丘高等学校と上牧高等学校」、「畝傍高等学校と耳成高等学校」、「榛原高等学校と室生高等学校」をそれぞれ統合し、「郡山高等学校」「西和清陵高等学校」「畝傍高等学校」「榛生昇陽高等学校」を設置することに。(平成16年4月1日から施行)
無事、畝傍高校という校名は残ったが、かたや校名を亡くした高校を思うと複雑な思いが残る。

さて、上写真に垣間見える畝高の門脇の守衛室と門前の「勝川書店」について、下記、非常に興味深い情報をいただきました。
−−−−−
畝傍高校の写真(上の白黒写真)ですが、おっしゃるとおり、門前の木造家屋は書店です。「勝川書店」といって、年度初めには教科書をそこで買いました。本を買うとかけてくれるカバーは、全国の大学の校章をちりばめたものでした。この書店もいまは店じまいして、ふつうの民家となっているはずです。
また守衛室は、屋根のうえに小さな五輪あしらったものらしき装飾(5つ輪があったかどうかは記憶になし、、、いや、もっとシンプルな突起状の装飾だけだったか。。。)がついた「ミニ帝冠様式」でした。当時すでに守衛詰め所の役割を終えており、体育用具置き場になっていました。その守衛室もすでに取り壊され、いまでは無粋なプレハブ小屋がぽつんと置かれたように記憶しています。(畝傍高校も本館と体育館以外はすかっり様変わりしました。思い出も多いです。せめて本館だけでも保存かつ使用していってほしいものです。)
'051012、U.S.A.T氏より投稿いただきました。ありがとうございました。
皆様からの思い出もお待ちします。
確かに、この守衛室は校舎(や講堂)と同じ設計者であったろうと推察でき、
「ミニ相輪」が載っていた可能性も大。改めて資料を探してみる事に。
ちょっとお時間いただきます。
後日談1
:畝傍高校の先輩によると、
畝傍高校は戦時下、海軍兵学校になっていたそうで、校門や守衛室など、警備施設はその当時のものではとのご意見いただきました。詳細は不明ながら、改めて波乱の歴史をつぶさに感じるお話でした。機会あったら、畝傍高校の歴史をチェックいたします!
後日談2
:畝傍高校の在校生によると、
勝川書店営業中です!とのことです。
洋風の胴体に本瓦葺きのパラペット屋根や塔を模した相輪付きの宝形屋根が載る。左右対称でまさしく「帝冠様式」の様相である(これは帝冠様式ではなく、耐震RC設計による和様との見解あり、旧JR奈良駅舎と共通項あり注意)。 華美でなく、象徴性の強い建物である。
畝傍高校校舎の歴史:昭和8年(1934年)、奈良県立「畝傍中学校」として竣工。戦中下、「海軍経理学校」として使われ、戦後、畝傍高等学校となる。吉野出身の岩崎平太郎の設計。
昭和26年11月に人間天皇となった昭和天皇がこの校舎正面に立ち、校庭にあふれるほどの人々に手を振った光景が写真で残っている。畝傍高校が「高市郡奉迎場」となったエピソードである。(「目で見る橿原・高市の100年」より)
戦後まもなくは、この塔正面の壁面に弾痕が残りその爆撃の激しさを物語っていた戦争の生き証人でもある学舎である
小中高校の統廃合問題は他人事ではないらしく、さてこの高校はどうやって時代を下っていくのであろうか。子供の頃からここは遊び場で、高校のお兄さんお姉さん方にもかわいがってもらい、思い出一杯のこの校舎には愛着も深い。難しいことをいわぬとも、お願い、これはそっとここにおいといて。

左:玄関車寄せの短い親柱の半球。姿よく好ましい形
右:正面玄関の入り口周りのディテール「和」か「洋」か?
右:正面玄関の入り口周りのディテール「和」か「洋」か?
-------------'05.07.28追記:奈良県立高校再編「8校を4校に」-------------
平成15年12月に奈良県議会で「奈良県立高等学校等設置条例の一部を改正する条例」案が可決され、「城内高等学校と郡山高等学校」、「信貴ヶ丘高等学校と上牧高等学校」、「畝傍高等学校と耳成高等学校」、「榛原高等学校と室生高等学校」をそれぞれ統合し、「郡山高等学校」「西和清陵高等学校」「畝傍高等学校」「榛生昇陽高等学校」を設置することに。(平成16年4月1日から施行)
無事、畝傍高校という校名は残ったが、かたや校名を亡くした高校を思うと複雑な思いが残る。

1962年ごろの畝高の門あたり 守衛室や門前の木造家屋(確か本屋さん?)がわかる
さて、上写真に垣間見える畝高の門脇の守衛室と門前の「勝川書店」について、下記、非常に興味深い情報をいただきました。
−−−−−
畝傍高校の写真(上の白黒写真)ですが、おっしゃるとおり、門前の木造家屋は書店です。「勝川書店」といって、年度初めには教科書をそこで買いました。本を買うとかけてくれるカバーは、全国の大学の校章をちりばめたものでした。この書店もいまは店じまいして、ふつうの民家となっているはずです。
また守衛室は、屋根のうえに小さな五輪あしらったものらしき装飾(5つ輪があったかどうかは記憶になし、、、いや、もっとシンプルな突起状の装飾だけだったか。。。)がついた「ミニ帝冠様式」でした。当時すでに守衛詰め所の役割を終えており、体育用具置き場になっていました。その守衛室もすでに取り壊され、いまでは無粋なプレハブ小屋がぽつんと置かれたように記憶しています。(畝傍高校も本館と体育館以外はすかっり様変わりしました。思い出も多いです。せめて本館だけでも保存かつ使用していってほしいものです。)
'051012、U.S.A.T氏より投稿いただきました。ありがとうございました。
皆様からの思い出もお待ちします。
確かに、この守衛室は校舎(や講堂)と同じ設計者であったろうと推察でき、
「ミニ相輪」が載っていた可能性も大。改めて資料を探してみる事に。
ちょっとお時間いただきます。
後日談1
:畝傍高校の先輩によると、
畝傍高校は戦時下、海軍兵学校になっていたそうで、校門や守衛室など、警備施設はその当時のものではとのご意見いただきました。詳細は不明ながら、改めて波乱の歴史をつぶさに感じるお話でした。機会あったら、畝傍高校の歴史をチェックいたします!
後日談2
:畝傍高校の在校生によると、
勝川書店営業中です!とのことです。
やまと まつり旅―奈良の民俗と芸能
宮本常一 [ちくま日本文学022] (ちくま日本文学 (022))
コミュニティ・レストラン
京都愛宕山と火伏せの祈り
絵図に見る伊勢参り
日本伝統の町―重要伝統的建造物群保存地区62
総覧 登録有形文化財建造物5000
Comments