八木の町をひも解く
● 奈良盆地、もとはなんと「湖」!
有史以前の奈良盆地は実は湖だった!という衝撃的な事実に当たる。そういえば、山に囲まれていることを念頭にそのまま盆地に水を流せば出来上がるので納得。しかしそんな単純な意味でなく、元「湖」であった事にはその後の大和の国-日本の歴史を左右する大きな要因を含んでいた事がもっと驚きであった。
● 奈良盆地、もとはなんと「湖」!
有史以前の奈良盆地は実は湖だった!という衝撃的な事実に当たる。そういえば、山に囲まれていることを念頭にそのまま盆地に水を流せば出来上がるので納得。しかしそんな単純な意味でなく、元「湖」であった事にはその後の大和の国-日本の歴史を左右する大きな要因を含んでいた事がもっと驚きであった。
湖といえば、生き物の発祥源である水をたたえる「命のゆりかご」である。長く水面下にあった土地がやがて陸地になったとき、そこは肥えた沃野になるという。湖の残姿が今の大和川水系で、橿原市辺りでは「飛鳥川」がこれにあたる。有史に入り神武天皇(人皇第一代)がこの地を訪れたときにはこの肥沃な水耕に適した土地には多くの人々が集っていたのであろう。
温暖で平和な風土に農耕人たる日本人がここ「奈良盆地」に歴史を始めるのである。そうして、政治的には古代大和王朝開幕。
ユネスコの世界文化遺産登録への推薦リストに「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」を追加!('07.01.24)明日香村、桜井市、橿原市と奈良県が共同で文化庁に出した提案書('06.11.30.)などの閲覧はこちらから(PDF1.37MB)>>
大和書房創立45周年記念・・・やまとさんではなく「だいわ」さん東京の方です
日本古代史大辞典―旧石器時代~鎌倉幕府成立頃
上田 正昭 井上 満郎

「息子と歴史の話がしてみたい」と始めた古代史研究がここに結実
● 古墳文化 ●
三輪王朝や崇神(第10代皇室)王朝とあまり耳慣れない古代王朝を経て、やがて5世紀、飛鳥時代(5c~645年大化の改新)に入る。ここころの日本史の舞台は奈良盆地南部で、まさに橿原市も含むこの辺り。物部・蘇我氏の戦い(排仏崇仏論争)、聖徳太子(538年仏教伝来,607年法隆寺創建)、蘇我馬子らによる仏教文化の流入、中大兄皇子(天智天皇661-71)、中臣鎌子(藤原鎌足)らの蘇我入鹿誅伐、大海人皇子(天武天皇661-86)の天下統一(672年壬申の乱・飛鳥浄御原宮遷都)、そして藤原京(697年)、平城京(710年)へと激動の歴史が奈良盆地を北進しながらをその中心(都)を移していく。
大和の豪族と渡来人―葛城・蘇我氏と大伴・物部氏
その後、日本史に橿原市が現れるのが、文久3年(1863年)で、畝傍山の東南を現在の神武天皇陵と決定され、明治10年2月11日に明治天皇がこの地を御親謁なさることとなる。こうして「橿原神宮」は明治23年(1890年)(府県制・郡制公布の年)に、京都御所より賢所(安政2年・重要文化財)・神嘉殿を移築し本殿・現神楽殿(平成8年6月に再建)とし、鎮座(官幣大社)することになる。神武陵捏造説について→


左:神武天皇陵 中:畝傍山麓の鬱蒼とした森 右:橿原神宮本殿に至る大回廊
橿原のとほつみおやの宮柱 たてそめしより
国はうごかず(明治天皇御製)
橿原市は南に明日香村と隣接する市で、全国的には「香具山」と「橿原神宮」(神武天皇陵)の存在で知られる町となる。江戸時代の富の集積を果たした重要伝統的建造物群保存地区「今井町」が注目されるのはもっと時代が下ってからである。
● 「橿原・かしはら」の名の由来 ●
「古事記」(712年太安万呂)によると橿原の地名の由来は、
「大祖の中国を平定し、畝傍の東南を相てもって土中となし王宮を営み橿原の宮という。
けだし其の宮に橿を樹うるをもって名付く所以か」
また
「橿を白梼・シラカシに作る。白梼は即ち橿なり」
ともあり、往事の樹木の植生が気になる伝聞である。(奈良盆地の平地部分は今やほとんどが田畑・宅地となり、陵墓や古墳、神社などにかすかに古代樹/原始林が残る)
(以上、「目で見る大和路」藤井辰三著/S62/サンケイ新聞社奈良支局など参考)
温暖で平和な風土に農耕人たる日本人がここ「奈良盆地」に歴史を始めるのである。そうして、政治的には古代大和王朝開幕。
ユネスコの世界文化遺産登録への推薦リストに「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」を追加!('07.01.24)明日香村、桜井市、橿原市と奈良県が共同で文化庁に出した提案書('06.11.30.)などの閲覧はこちらから(PDF1.37MB)>>
大和書房創立45周年記念・・・やまとさんではなく「だいわ」さん東京の方です
日本古代史大辞典―旧石器時代~鎌倉幕府成立頃
上田 正昭 井上 満郎

「息子と歴史の話がしてみたい」と始めた古代史研究がここに結実
● 古墳文化 ●
三輪王朝や崇神(第10代皇室)王朝とあまり耳慣れない古代王朝を経て、やがて5世紀、飛鳥時代(5c~645年大化の改新)に入る。ここころの日本史の舞台は奈良盆地南部で、まさに橿原市も含むこの辺り。物部・蘇我氏の戦い(排仏崇仏論争)、聖徳太子(538年仏教伝来,607年法隆寺創建)、蘇我馬子らによる仏教文化の流入、中大兄皇子(天智天皇661-71)、中臣鎌子(藤原鎌足)らの蘇我入鹿誅伐、大海人皇子(天武天皇661-86)の天下統一(672年壬申の乱・飛鳥浄御原宮遷都)、そして藤原京(697年)、平城京(710年)へと激動の歴史が奈良盆地を北進しながらをその中心(都)を移していく。
大和の豪族と渡来人―葛城・蘇我氏と大伴・物部氏
その後、日本史に橿原市が現れるのが、文久3年(1863年)で、畝傍山の東南を現在の神武天皇陵と決定され、明治10年2月11日に明治天皇がこの地を御親謁なさることとなる。こうして「橿原神宮」は明治23年(1890年)(府県制・郡制公布の年)に、京都御所より賢所(安政2年・重要文化財)・神嘉殿を移築し本殿・現神楽殿(平成8年6月に再建)とし、鎮座(官幣大社)することになる。神武陵捏造説について→



橿原のとほつみおやの宮柱 たてそめしより
国はうごかず(明治天皇御製)
橿原市は南に明日香村と隣接する市で、全国的には「香具山」と「橿原神宮」(神武天皇陵)の存在で知られる町となる。江戸時代の富の集積を果たした重要伝統的建造物群保存地区「今井町」が注目されるのはもっと時代が下ってからである。
● 「橿原・かしはら」の名の由来 ●
「古事記」(712年太安万呂)によると橿原の地名の由来は、
「大祖の中国を平定し、畝傍の東南を相てもって土中となし王宮を営み橿原の宮という。
けだし其の宮に橿を樹うるをもって名付く所以か」
また
「橿を白梼・シラカシに作る。白梼は即ち橿なり」
ともあり、往事の樹木の植生が気になる伝聞である。(奈良盆地の平地部分は今やほとんどが田畑・宅地となり、陵墓や古墳、神社などにかすかに古代樹/原始林が残る)
(以上、「目で見る大和路」藤井辰三著/S62/サンケイ新聞社奈良支局など参考)
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