八木が輩出した芸術家は、茶人:松山逸斎、笛:明教寺智城、画家:岡本桃里・岡本花橋が高名であるらしく名が上がっている他、宿場町八木らしく多くの文人・墨客が旅すがらこの地を訪れたようです。ただ、裏を返せば大抵はこの八木が旅の目的でなく、通過地点であったことが少々残念な気持ちです。


長谷寺本殿拝殿西側に揚げられている岡本花橋図による勇壮な絵馬
元治元年(1864・京都で禁門の変)甲子の年に世直し祈願であろうか?
武陵斎桃里弟とある。
元治元年(1864・京都で禁門の変)甲子の年に世直し祈願であろうか?
武陵斎桃里弟とある。
八木を訪れた芸術家として、『南北二京霊地集』の僧良定、『和州寺社記』の村井道弘、『南都名所集』の太田叙親、『養生訓』の貝原益軒、『和州旧跡幽考』の林宗甫、『南部賦』の小笠原基長、『大和誌』の並河誠所、各地の名所図絵の秋里籬島・竹原春朝、『吉野郡名山誌』『吉野郡中物産誌』の畔田伴存らがあげられています。他には本居宣長、太平、有司貴紳、中でも松尾芭蕉は頓に有名です。
悪党芭蕉
嵐山 光三郎

芭蕉紀行 (新潮文庫)
嵐山 光三郎

あまり知られていない芭蕉像も垣間見せてくれて、楽しい本。
芭蕉はどんな旅をしたのか―「奥の細道」の経済・関所・景観

岡本桃里【おかもと とうり】 文化3年1806-明治18年1885
谷三山の4つ年下。四条派の日本画家で、郷里大和(奈良県)の陵墓を巡拝し、画集「大和各山陵絵」「大和各山陵図」などを手がける。尊王思想をもち、晩年は橿原神宮創建もかかわったとされる。号は武陵斎。八木せんたい場図なども描いたとされる。八木恵比須神社拝殿の三十六歌仙(M21奉献)は兄弟の岡本花橋による。
幕末の同時代に生きた八木の谷三山と岡本桃里はどういった交流をもったのであろうか?
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草臥れて 宿かる此や 藤の花
(松尾芭蕉-貞享5/1688.04.11-札の辻に宿泊時の句)
(松尾芭蕉-貞享5/1688.04.11-札の辻に宿泊時の句)
悪党芭蕉
嵐山 光三郎

芭蕉紀行 (新潮文庫)
嵐山 光三郎

あまり知られていない芭蕉像も垣間見せてくれて、楽しい本。
芭蕉はどんな旅をしたのか―「奥の細道」の経済・関所・景観

岡本桃里【おかもと とうり】 文化3年1806-明治18年1885
谷三山の4つ年下。四条派の日本画家で、郷里大和(奈良県)の陵墓を巡拝し、画集「大和各山陵絵」「大和各山陵図」などを手がける。尊王思想をもち、晩年は橿原神宮創建もかかわったとされる。号は武陵斎。八木せんたい場図なども描いたとされる。八木恵比須神社拝殿の三十六歌仙(M21奉献)は兄弟の岡本花橋による。
山陵奉行【さんりょうぶぎょう】について
徳川幕府が設置した山陵(天皇・皇后などの墓)を管理する職名で。
文久2(1862)年、戸田忠至を山陵奉行に任命し、谷森善臣・北浦定政・平塚瓢斎・岡本桃里らが選ばれる。
文久3(1863)年、神武天皇陵を治定。
慶応3(1867)年、山陵奉行によって116陵の修築事業が完了する。
この山陵奉行の「幕末の大修築」の折、山陵に「拝所」「石灯籠」以外に「鳥居」「周濠」などが整えられたという。山陵奉行職は幕府の役職でありながらその設置理由が、「尊皇攘夷」思想に基づいているという点が注目される。
幕末の同時代に生きた八木の谷三山と岡本桃里はどういった交流をもったのであろうか?

長谷寺絵馬に谷孫兵衛の文字
やまと まつり旅―奈良の民俗と芸能
宮本常一 [ちくま日本文学022] (ちくま日本文学 (022))
コミュニティ・レストラン
京都愛宕山と火伏せの祈り
絵図に見る伊勢参り
日本伝統の町―重要伝統的建造物群保存地区62
総覧 登録有形文化財建造物5000
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