2010年7月11日、「住民主体のまちづくり」フォーラムin大和高田は、専立寺本堂にて、ほぼ半分県職員という異様な雰囲気の中、行われました。
若き専立寺住職の奮闘ぶりが際だちましたが、現住職はもっと熱かった。
県のモデル事業の補助を受けてた三地区(高田、八木、吉野)に先進地区今井の活動報告が主で、近大の久先生の基調講演で、まちづくりの考え方の(大学の講義か?と思うばかりの)学術的な説明があった。

若き専立寺住職の奮闘ぶりが際だちましたが、現住職はもっと熱かった。
県のモデル事業の補助を受けてた三地区(高田、八木、吉野)に先進地区今井の活動報告が主で、近大の久先生の基調講演で、まちづくりの考え方の(大学の講義か?と思うばかりの)学術的な説明があった。

100711高田の夜店と商店街
確かにまちづくりを俯瞰し、現場での実践もおこなっている先生の方法論であるが、住民ら一般人には実用性を欠く、また不親切な内容ではなかったか。
一方フォーラムや交流会を通じての久先生のお人柄はとても真摯で、私たちの不躾な質問、お願いにも丁寧にお答えくださった姿が印象的。ご本人自ら仰られたとおり、理工系だった自分がフィールドで人付き合いを実践し苦悩されている証左であろうか。
まちづくりという摩訶不思議なフィールドで今までの自分の仕事・実績が生かされうれしい反面、人と人、所有権や法律と、個人の感情が入り交じるまちづくりで、その自信がもろくも崩れ去るという場面にぶちあたったのは私だけではないでしょう。
言葉の端々に人を思いやること、また、自分の発言に責任を持つこと、いろんな人に自分の言葉がどう聞こえるか・・・・はこれまでの狭いフィールドでの仕事とは違う気回しが必要だと痛感する。
●●●●●090909記
八木から近鉄大阪線急行一駅で隣市高田の高田駅です。私の小さい頃は百貨店へお買い物というときはJR畝傍駅からいざ、高田へ・・・。心浮き立つ特別のひとときでした。大阪というところがお近づきになるまでは、「高田は都会」、税務署や裁判所など役所、大きな工場、にぎやかな商店街・・・でした。やがて八木にもニチイや近鉄百貨店ができ、また、特別のお買い物は一挙に大阪に行くようになると、高田へ行く用がなくなってしまい、なんだか距離感ができてしまいました。(大和高田市の人口は橿原市の6割、面積は4割、市街地は八木と今井を足してもっと多様で大きい印象、人口密度は奈良県一位
橿原市は二位)
高田の町のルーツは、中世、興福寺の荘園「平田庄」で八木の辺りを含めた南大和はみんな田んぼ。横大路・下街道といった街道筋の交通の要衝として、またそこから村・町が起こり、後、高田城の城下町、専立寺寺内町として栄え、近世には「商都高田」と呼ばれる商業都市になりました。高田木綿・高田絣から発した大和紡績(後の日紡、ユニチカ)の大工場が多くの労働者を集め、賑わいが頂点に達します。(高田の歴史散歩(大和高田市HP))



が、いずこも同じ、紡績工場の撤退、高度経済成長の後、町は何につけても老化現象が起こります。過去の繁栄があるからこその悩み、その名残をどうするかの岐路に今、立ち止まっています。








昔は元気一杯、商売に励んでいた層が高齢化し、業態が時代に乗り遅れ、更新されずに、跡を継ぐ人材もいない・・・、都会に職場を持つ人々には町に活力を与える時間もエネルギーもない。しかし、この町が「ゆりかご」のようにいつまでも、やさしく包んでくれていて欲しいと願う気持ちに偽りはないはず。八木のまちも同じこと。何が欠け、何が必要か?急がず答えを見つけていこう!

一方フォーラムや交流会を通じての久先生のお人柄はとても真摯で、私たちの不躾な質問、お願いにも丁寧にお答えくださった姿が印象的。ご本人自ら仰られたとおり、理工系だった自分がフィールドで人付き合いを実践し苦悩されている証左であろうか。
| 都市デザインの手法―魅力あるまちづくりへの展開 鳴海 邦碩 学芸出版社 1990-12 by G-Tools |
まちづくりという摩訶不思議なフィールドで今までの自分の仕事・実績が生かされうれしい反面、人と人、所有権や法律と、個人の感情が入り交じるまちづくりで、その自信がもろくも崩れ去るという場面にぶちあたったのは私だけではないでしょう。
言葉の端々に人を思いやること、また、自分の発言に責任を持つこと、いろんな人に自分の言葉がどう聞こえるか・・・・はこれまでの狭いフィールドでの仕事とは違う気回しが必要だと痛感する。
●●●●●090909記
八木から近鉄大阪線急行一駅で隣市高田の高田駅です。私の小さい頃は百貨店へお買い物というときはJR畝傍駅からいざ、高田へ・・・。心浮き立つ特別のひとときでした。大阪というところがお近づきになるまでは、「高田は都会」、税務署や裁判所など役所、大きな工場、にぎやかな商店街・・・でした。やがて八木にもニチイや近鉄百貨店ができ、また、特別のお買い物は一挙に大阪に行くようになると、高田へ行く用がなくなってしまい、なんだか距離感ができてしまいました。(大和高田市の人口は橿原市の6割、面積は4割、市街地は八木と今井を足してもっと多様で大きい印象、人口密度は奈良県一位
橿原市は二位)

![]() | 京・まちづくり史 高橋 康夫 昭和堂 2003-07 by G-Tools |



おばちゃんアイテムの「天神橋西商店街」「イマニシ用品店」、市町通り「赤ちゃんや」
が、いずこも同じ、紡績工場の撤退、高度経済成長の後、町は何につけても老化現象が起こります。過去の繁栄があるからこその悩み、その名残をどうするかの岐路に今、立ち止まっています。



本郷通り「中央温泉」、本町通り近代建築「宮城医院」・町家造りの医院建築
寺風な銭湯の造りは関東大震災後に関東で、宮大工が復興を祈願して作り始めたのが起源では、という。関東では唐破風付きが多い。時代を物語るその風姿は登録文化財にも近い位置にあるのでは。



伊勢街道の町並み、市町通りの町家、寺内町本町通りの町家


高田市栄和町の太神宮灯籠、高田伊勢街道の大神宮の高灯籠
高田は伊勢灯籠の質量共に大和随一。
高田は伊勢灯籠の質量共に大和随一。
大和高田市公式ホームページ
夢咲塾
大和高田市本町市町まちづくり協議会
昔は元気一杯、商売に励んでいた層が高齢化し、業態が時代に乗り遅れ、更新されずに、跡を継ぐ人材もいない・・・、都会に職場を持つ人々には町に活力を与える時間もエネルギーもない。しかし、この町が「ゆりかご」のようにいつまでも、やさしく包んでくれていて欲しいと願う気持ちに偽りはないはず。八木のまちも同じこと。何が欠け、何が必要か?急がず答えを見つけていこう!

高田の町を救えるか?大衆演劇ファンの元気の源「弁天座」
![]() | 寺内町の研究〈第1巻〉戦国社会と寺内町 峰岸 純夫 脇田 修 法蔵館 1998-10 by G-Tools |
![]() | 寺内町の歴史地理学的研究 (日本史研究叢刊) 金井 年 和泉書院 2004-09 by G-Tools |
![]() | 絵図に見る伊勢参り 旅の文化研究所 河出書房新社 2002-10 by G-Tools |
![]() | 伊勢詣と江戸の旅 (文春新書) 文藝春秋 2004-04-21 by G-Tools |
![]() | 宇野浩二書簡集 (作家の書簡と日記シリーズ) 増田 周子 和泉書院 2000-06 by G-Tools |
![]() | 思い川・枯木のある風景・蔵の中 (講談社文芸文庫) 講談社 1996-09 by G-Tools |
やまと まつり旅―奈良の民俗と芸能
宮本常一 [ちくま日本文学022] (ちくま日本文学 (022))
コミュニティ・レストラン
京都愛宕山と火伏せの祈り
絵図に見る伊勢参り
日本伝統の町―重要伝統的建造物群保存地区62
総覧 登録有形文化財建造物5000






Comments
高田在住ですが、八木へは通院のために月に2回は訪問しています老人です。
久隆浩さんが高田市内へ来られていたとは、存じませんでした。阪大の助手をなさっていた頃から、いろいろと行政の職員と一緒になって「まちづくり」や「景観」について考えておられました。
たとえば、スーパーライフの看板の色づかいなどですね。近鉄高田駅近くのライフの看板は、茶色の下地へ金色の線でクローバーをかたどっています。京都市内でのマクドナルドなどの色の規制などと同じで、町に馴染む色づかいが結局は店の価値を高めますよと、会社の役員の方にまで会って、箕面市内の看板の色彩の変更の協力を頂いたのが最初だったと記憶します。
奈良県の職員が大挙して押しかけたのは、このような事業そのもの予算を、東京で認めさせてきたご本人らしいと嗅ぎつけたのでしょうか。もしかしたら彼らのやる気を、叱咤激励する講演の内容だったのかもしれませんね。
長くなってしまい恐縮です。おじゃましました。
私も小さい頃、高田はあこがれの地でした!今はさびれたとは言いますが、魅力いっぱい、レトロな気分になれる町です。銭湯やお寺さんも元気。是非、町歩きなさってみてください。
でも、閉店つづきでシャッター通りになり、高齢化や後継者不足でとても大変そうです。住みよい町なのでしょうが・・・。
イベントなどのときはみんなで応援しましょう。
また、今年は立山が一基増えそうです。八木の愛宕祭にもお帰り下さいね。
内膳町の出身で今は神戸に住んでいます。札の辻とか井戸の辻とか、小学校へ通った道を思い出します。
高田高校卒業です。八木から高田まで大阪線に乗って、商店街を15分毎日歩いていました。八木の町はもちろんですが、高田も本当に懐かしい。
小さい頃は何かというと「高田にお出かけ」でした。洋服を新調するときはイマニシ洋品店で購入!当時のおしゃれ発信地だったように思います。
あまりに懐かしく書き込みをしてしまいました。