床柱の中抜きは息抜き?

中抜きの床柱が語るもの・・・京町家の手練

明治期から戦後にかけて自由な発想の床の間の造作が庶民の間でも広がります。特に阪神間は「何でもあり」がまかり通ることを感じます。銘木屋さんのモデルルームのような部材・部品の当て込みで、ややバランス軽視に感じるのも私だけでしょうか?

120809阪神間の数寄屋造り 銘木

その点京都、それも町場の床の間回りには小粋な設えを多く目にします。まねはできないけど、「なじんだ感」を醸す造作には作り手の「手練」を感じます。部材の細さ、納りの自然さ、くせ者材料の見立てや始末が違うのです。

さて、床柱の中抜きはいつごろから現れたのでしょうか?

張り詰めた空間の緊張をふうっと解く効果があります。琵琶床など床脇のひとこまを床の間全体の息抜きに使うような手法からこの柱を中抜きしようとした発想はすばらしい。真ん中で途切れた上下の共材が磁力で引き合っているようにもみえますね。文人好みでもあったのかもしれません。少し気楽な席に似合います。

040129団栗大和大路の古町家 粋な小床 床柱の中抜き

家移り前、家財がなくなったところで撮った、家人らには思い出の写真です

床の間と床脇の設えには、あうんの呼吸が必要です。「床照らし」の下地窓や珍くぐりも同じで、床の間の造作は軸や花、器物への演出装置であるからです。

京町家の床の間回りには、小空間ならではのこうした「遊び」がいっぱいです。この床の間も階下が店舗である町家の2階にある六畳。限られた空間にさりげない床の間ひとつで「2階住まい」の質がぐっと上がります。お座敷でも茶室でもないけれど、、、というところが京町家の床の間。

花一輪、香炉ひとつにともない、2階座敷には足袋のハゼを止める仕草や衣紋掛けの風情といった日常があります。

数寄屋詳細図譜1969 著:北尾春道

北尾春道:1896-1972 明治29年12月1日大阪府南河内郡北八下村生。昭和初期の和風再考の気運の高まる時期に、多くの数寄屋建築の実例を調査し著作多数。昭和戦前期の建築界における和風世界の動向を知る上で重要な人物。東京高等工業学校を卒業の後、設計家を経て、数寄屋建築にひかれその探求者となる。京都西本願寺内に建つ貫主の私邸・錦華寮建設を契機として京都に足を運び,昭和11年から昭和13年にかけて数寄屋建築の調査・研究。『数寄屋聚成』(全20巻)が昭和10~12年、『国宝書院図聚』(全10巻)が昭和13~14年にかけて出版。古田織部に強くひかれ茶は織部流。吉田五十八の他に掘口捨巳や美術評論森口多里などとも親交。シンガポールから昭和21年に帰国した後は、専ら調査研究と著作活動に専念。(『近代和風建築を支えた工匠に関する史的研究』(近江 栄, 大川 三雄, 向後 慶太)参照)